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2015年2月24日 (火)

恵翠シュタイナー書道教室の教育システム

お稽古時間:90分

①教室に入る時 (教室に入る時:「こんにちは」)(靴を揃える、所定の位置に上着や鞄等を置く)

②前半の準備(約2.5分)

③競書 硬筆 / 競書 硬筆段試験(約25分)(始まりの言葉:「お願いします」)
 ※コンクールの時期は、競書と週替わりで取り組ませるようにする。

④前半の後片付け(約2.5分)

⑤プラス・アルファ教育(約25分) ― A~Dのいずれかを行う。―
 A. 国語読解力ドリル(印象をふくらませる:幼・小・中)/ お絵かき(主に空想力の育成:低学年)
 B. オイリュトミー(運動を主体とする芸術的アプローチ)&フォルメン(有機的な動きの形状を把握するための芸術的アプローチ)」(心魂的ミルク=良心を基盤としたイメージ形成:幼・小)
  / 人智学的アプローチ(精神的ミルク=良心を基盤とした思考力育成:中学・高校)
 C. テーマを決めてとことん話し合う+エポックノート(主に職業観へのアプローチ、「魂の成長記録」)
  ※A.~C.の内容は、「7年周期(7年ごとの人間の発達の段階指針)」、「9歳の危機(客観的能力への目覚めと葛藤)」、「四つの気質(憂鬱質、粘液質、多血質、胆汁質)」と「四層構造(肉体、エーテル体、アストラル体、自我)」による分析をした上で決めていく。
  ※発達障害(アスペルガー症候群、ADHD、LD)の子には、リフレ―ミング(ポジティブな言葉に
置き換えて「見方を変えて味方になる」指導)に努めながら、他の子にも良い影響を与えるイン
クルーシブ(人権や生命の尊厳を学べる)でかつアイディア教育を展開。注意が散漫にならない
ように必要なもの以外は机上から小まめに移動させる。また場面緘黙、強迫神経症、てんかんの
子に対しても、きめ細やかな配慮に努めた指導を行う。
 D. 段試験期間の競書(硬筆 / 毛筆)
※③と⑧に変えて行うこともある。

⑥おやつ(約10分)(おやつを渡された時:「ありがとうございます」、食べる時:「いただきます」)
  ※問題が表出している子に対し、おやつの時間を用いて、別室にて、マンツーマン・カウンセリン
グの時間に充てる場合もある。

⑦後半の準備(約2.5分)

⑧競書 毛筆 / 競書 毛筆段試験(約20分)
  ※コンクールの時期は、競書と週替わりで取り組ませるようにする。

⑨後半の後片付け(約2.5分)

  ※①~⑨では、「努力カード」に努力の成果を記録していく。月締めで「今月のベストテン」の集計
   し掲示する。また、年間を通しての集計からの上位者と、「できない」を克服するための努力が著
しかった者に対し、クリスマス会の授賞式で表彰する。

⑩宿題 ※親御さんがお迎えに来るまでの時間

⑪帰りに親御さんに渡すもの(帰る時の言葉:「ありがとうございました」「さようなら」)
 ・今日、3番目に良かった作品(硬筆・毛筆)
 ・取り組んだドリル、絵画等
 ・北光誌(昇級・昇段):月1回
 ・月謝袋:月1回
 ・〈恵翠シュタイナー書道教室通信〉:5月(高円宮杯のお知らせと段試験のお知らせ+シュタイナー教
  育入門記事)、9月(書写コンのお知らせと段試験のお知らせ+シュタイナー教育入門記事)、12月
(北光誌上展のお知らせとクリスマス会のお知らせ+シュタイナー教育入門記事)
※基本は年3回(増える場合あり)

<その他の行事>
 夏休み / 映画会   (道徳的に優れている内容のもの)
 冬休み / クリスマス会(授賞式&お楽しみ会


恵翠書院 盛岡教室 http://flock.cocolog-nifty.com/blog/cat51275045/index.html

恵翠書院 滝沢教室 http://flock.cocolog-nifty.com/blog/cat51275017/index.html

2015年2月17日 (火)

「教育は平和活動」 シュタイナー教育の重要性について

 

例えば、イエス・キリストは、宗教の上では立派な神です。優れた信仰を持つ者によって、数々の奇跡を起こしているからです。

 

 

 

しかし、科学の上では立派な神には成り得ていません。人類は、まだまだ目に見えない世界の解明がわずかしか得られていないからです。

 

 

 

つまり、科学の上でのイエス・キリストでは、人々の心を支える力には成り得ないわけです。まだまだ信仰による奇跡に頼らなくては、絶望に繋がってしまいやすいことが、この世には多く存在しているからです。このことは、仏陀にも、他の名前の神様にもいえる現実です。

 

 

 

そう言う意味でも、信仰を持つことはとても重要なことではありますが、同時に私たちは科学の目を養い、人類が科学の面からも優れた神を見いだしていけることに積極的に参加していくことが重要なのだと思うのです。21世紀は、そういう世紀になっていくと私は見ています。

 

 

 

「自分は科学者ではないから関係ない」などとは考えてはいけません。あなたの小さな発見が、周りの人に影響を及ぼし、大きな発見に繋がる良い土壌作りに間違いなく役立っていくと考えられるからです。

 

 

 

信仰による奇跡と、科学による奇跡がイコールに近づいていくことにより、宗教を超えた〈真実の神〉が燦然と輝いていくことになるでしょう。そこで人類は、どの神が正しいかなどという議論をすることがなくなります。宗教を楯とした民族紛争も意味がなくなることでしょう。

 

 

 

シュタイナーの挑戦は、そこにあります。

 

 ルドルフ・シュタイナー Rudolf Steiner1861.2.27 - 1925.3.30 オーストリア帝国、現在のクロアチア出身の神秘思想家で、アントロポゾフィー(人智学)の創始者。哲学博士。

 

 

 

彼が当時、この世に存在するあらゆる宗教を研究し、その上で科学的なエッセンスを多く取り得ているのは信仰と科学の融合を目的としているからです。彼の神秘的な思想は、ある種のファンタジーと言えるものなのかもしれません。その多くは時間の経過とともに古くなり、正しい知識に切り替えていかなくてはならないわけですが、彼のファンタ―ジーには自由があり、その自由がなくては真理を見いだすことは決してできないのです。

 

 

 

つまり、シュタイナーの教えにかぶれてしまい頭ごなしに正しいと考えるのではなく、シュタイナーのように自由な発想によって、その素晴らしい世界を人類に示していこうと考えるべきなのです。

 

 

 

いかにシュタイナーの教えだからと言って、自分にとって違和感を感じる考え方を、無理して取り入れなくてはならないということはありません。違和感を感じることについては、あくまで〈保留〉とし、自分にとって自然に受け入れられる考え方を優先して進めて行った方が、むしろ真理への発見に繋がっていくように思えるからです。自由には批判も含まれます。頭ごなしの批判はいけませんが、逆方向から考える発想があっても良いと思うのです。

 

 

 

大切なことは、間違っていることは訂正し、新しく見いだされたことは付け加えることができるかどうかということです。

 

 

 

宗教の教えは、神の教えと考えているゆえに絶対的であり、それゆえ間違いがあっても訂正できませんし、新しく見いだされたことがあっても付け加えることもできません。このような知識を「絶対的知識」といいます。

 

 

 

しかし、シュタイナーの教えは、間違っていることは訂正し、新しく見いだされたことは付け加えることができる「相対的知識」なので、真理を見出していくための無限の可能性を秘めています。

 

 

 

子どもたちには、中学に入るまでは、残念ながら、このことをストレートに伝えることはできません。親御さんには、塾の通信プリントの記事の中で、伝えることは可能かもしれませんが、あくまで興味を持っている方が対象となります。

 

 

 

子どもたちが中学に入る頃には、こういったことが理解できる学力と、センスを身に着けさせられるよう教育を進めています。そのために当塾では、子どもたちの行動を観察し、「7年周期(7年ごとの人間の発達の段階指針)」、「四つの気質(憂鬱質、粘液質、多血質、胆汁質)」と四層構造(肉体、エーテル体、アストラル体、自我)による分析を基本とし、「オイリュトミー(運動を主体とする芸術的アプローチ)」や「フォルメン(有機的な動きの形状を把握するための芸術的アプローチ)」、「エポックノート(主に職業観の育成)」などを導入しているのです。

 

 

 

ではなぜ、上記で説明したような「相対的知識」が必要なのでしょう。

 

 

 

そこをしっかりお伝えしないと、不安になってしまう親御さんも出てきて当然でしょう。超越的内容が多いゆえ、カルトのようなものと受け止められてしまっては意味がありません。

 

 

 

それは、私たちが「いつも安心して生きていく」ためです。

 

 

 

不安は諸悪の元凶といえます。

 

 

 

神は、私たちのことを決して見捨てることはありません。どんなに間違ったことをしたとしても何度でも何度でも許してくださいます。神はこの世ではなく、あの世(霊界)の支配者なので、その御力を感じるためには、奇跡体験が重要となります。その奇跡体験を得るためには数々の試練を神の支えによって乗り越える必要があるのです。

 

 

 

逆に悪魔は、この世の支配者ゆえ物質的な目に見える力を持っています。この世の権力や富は悪魔が作り出したものでもあります。しかし悪魔は、決して間違いを許してはくれないので、しまいには人間を見捨ててしまうのです。調子のいい時は、たいへん頼れる存在ですが、調子を失い始めると大きな苦痛を与える恐ろしい存在に変貌するのです。

 

 

 

神とは「善」そのものであり、「安心」そのもののでもあります。

 

 

 

悪魔とは「悪」そのものであり、「不安」そのものでもあります。

 

 

 

そのようにきっちり二つに分けて考えると二元論的(善か悪か)になってしまいあまり良くないのですが、私は悪魔にもある意味役割があって、人はだれもが悪魔との関わりを避けては生きていけません。まず、お金が無くては生活していくことは不可能です。だからこそ「神の限りなき許し」が必要になると考えています。つまり、トータルに一元的に(何事もポジティブに)考えるべき問題だと思うのです。

 

 

 

ただ、神に生きている人は、どんな試練に出会っても、神と共にいるので「安心」しています。

 

 

 

そこが戦場であったとしても、神に生きている人は、「安心」して生きていけることでしょう。

 

 

 

人が信じられない人は、お金が無くなると、周りの人が誰も助けてくれないゆえ、「不安」に陥り、人をだますことを考えたり、盗みを考えたり、自暴自棄に陥って憎しみを誰かに向けるなど、犯罪に走りやすくなります。

 

 

 

何度裏切られようと人を恨まない人は、お金が無くなっても、普段、周りの人を愛しているゆえ、周りの人が助けてくれます。つまり、「何があっても、だいじょうぶ」なのです。

 

 

 

つまり、神様が何度でも何度でも許すお方ゆえ、私たちも何度でも何度でも許す者にならなくてはいけないわけです。それは、神が人間に求める願いと言えるのかもしれません。

 

 

 

神と共に生きる「安心」が得られると、人生にいなかる試練が待ち構えていたとしても、「何があっても、だいじょうぶ」で乗り切ることができるのです。

 

 

 

私は、このセンスを子どもたちに身に着けさせたいと考えているのです。こういう子どもたちが増えていくのなら、世界は必ず平和に向かっていくことでしょう。

 

 

 

史上最年少でノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさん。「教育こそが、世界平和へのたったひとつの解決策である」と声高々に叫びました。私は、子どもの教育に携わっている者として、彼女のメッセージがとても心に響きました。そして、私の小さな書道塾ではありますが、彼女のメッセージに応えられるような教育を展開していこうと心に誓いました。

 

 マララ・ユスフザイ Malala Yousafzai、パキスタンの女性人権活動家。1997712日、北部山岳地帯のスワート渓谷に生まれる。11歳のとき、英BBC放送のウルドゥー語ブログに、グル・マカイというペンネームを用いて日記を投稿し、注目を集める。女性教育の権利を認めないタリバンの圧力に屈せず、「女の子にも教育を、学校に通う権利を」と訴えつづける姿勢が、多くの人々の共感を呼んだ。2012109日(当時15歳)、スクールバスで下校途中に、タリバンに襲われる。頭部を撃たれ、生死の境をさまようものの、奇跡的に命をとりとめ、その後も教育のための活動を続けている。その勇気と主張が評価され、30近くのさまざまな賞を授与される。パキスタン国民平和賞、キッズ・ライツ財団の国際子ども平和賞、クリントン大統領のグローバル・シチズン賞、アムネスティ・インターナショナルによる良心の大使賞、欧州議会による思想の自由のためのサハロフ賞など。2014年、史上最年少でノーベル平和賞を受賞。全世界の子どもたちがみな教育を受けられるように訴えるとともに、NPO組織である「マララ基金」を通して、世界中の草の根団体や教育支援活動をサポートしている。

 

 

 

 

 

世界を平和にする方法

 

 

 

教育によって、未来を担う子どもたちの心を不安から安心へと変えていき、「何があってもだいじょうぶ」と考えられる柔軟でポジティブな心を養っていくこと。そして、その教育が世界に広がっていくこと。

 

 

 

 

 

さらに付け加えて言うなら、周りの人たちが必ず良くなると信じて、ひたすら人を愛すること。そして、周りの人たちが必ず良くなると信じて、ひたすら人を許すことが重要なのです。

 

 

 

世界中の人を悩ましている悪い考えを持っている人たちも、いずれ年を取って死んでいくことでしょう。教育により、良い考えを持った子どもたちがどんどん増えていくならば、確実に世界は平和に向かっていくのです。

 

 

 

私が「教育は平和活動(悩みながら、苦しみながら、悲しみながらも、ひたすらに愛に生き、ひたすらに許すこと)」というスローガンを掲げているのはそこにあるのです。

 

 

 

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2015年2月 3日 (火)

県書写コン特別賞発表

1月31日(土曜日)付けの岩手日報朝刊に、県小・中・高書写書道コンクールの特別賞が発表された。

当塾からは、6年生の女子児童が硬筆で全日本書写書道教育研究会長賞を、3年生の女子児童が毛筆で県芸術文化協会長賞を受賞した。

6年生の女子児童は、3年連続の受賞だが、去年は毛筆も硬筆もダブルの受賞だっただけに、毛筆での受賞を逃したことを大変悔しがっていた。3年生の女子児童は、初めての特別賞をとても喜んでいた。

応募総数6万5352点中、特別賞に選ばれたのはわずか221点である。そして、特選と推薦を合わせ、3月に岩手県民会館に展示されるのは全体の約十分の一の5891点である。特別賞となれば、全体の約三百分の一と狭きものとなる。

書写コン特別賞の常連だった中学2年生の男子生徒は、残念ながら今回は逃してしまった。彼は、才能はピカイチであるが、今回は生徒会長に立候補するなど学校行事に追われ、練習量が足りな過ぎたのが原因だったと思う。

つい先日、NHKテレビで「高野山」というドキュメント番組を見た。気温マイナス10度の中、川の水に入って必死にお経を唱えるなど、それは厳しい修行の様子が映し出されていた。煩悩をすべて消し去ってこそ、本来、自己に備わっている仏の心が輝くというのである。ある意味、完全なる自己否定のようにも感じられた。それはともかく、紹介されている厳しい修行の中に、写経を書いているシーンがあった。

私も般若心経の写経をすることがあるが、あくまで字が上手になりたいゆえの練習である。だから、休み休み書くのだが、高野山の修行では、もの凄い暑さと、姿勢を崩すことが許されず足のしびれと闘わなくてはならない護摩行と同様、雑念が描けぬよう、つまりは煩悩を消し去る意味で、速いテンポで一気に書き上げていく。心の乱れのない文字を書き続けることに必死なのである。

今回の6年生の女子児童の硬筆作品は、それに近いものがあったと思う。とにかく彼女は、書いて書いて書きまくった。それゆえ、乱れのない完璧な作品に仕上がった。

毛筆の方が残念だったのは、私に原因があったのかもしれない。もちろん、彼女は書いて書いて書きまくって私のお手本通りに書いていた。しかし、お手本通りに書かれてしまうと、教える者にとって、もっと優れた作品に仕上げようと欲が出てきてしまう。書道字典で古い文字を調べてみたり、過去の入賞作品の字を調べてみたりしながら、いくつものお手本を書いては書いてもらったことになる。ある意味、県知事賞の作品よりも芸術性のある作品を書いていたかもしれない。

しかし、新聞に掲載されれていた県知事賞の作品は、書写コンの課題手本を乱れなく完璧に書いたものであった。つまり、彼女の硬筆作品のように、書いて書いて書きまくることで十分だったのだ。書写コンは、ある意味「いかに修行をしたか」が問われるコンクールだったのである。もし、私が、芸術性のある手本を書かなければ、彼女は間違いなく特別賞をとっていたことだろう。

今回の結果を見て、ある意味安心したことは、教師の手本で決まるということはなく、出品要項と一緒に付いてくる手本で十分なのである。つまり、「いかに修行をしたか」ということが重要なので、大人のコンクールのようにカリスマ先生の手本でなければ上位入選しないということはないのである。出品する全ての学校に平等が保たれているのだ。

先日、子どもたちと芸術とは何かと話し合った。

例えば、「生きる」とパソコンで印刷した文字を壁に貼ったとする。見る人は、「生きる」と文字が貼っていることはわかっても大した感動は無い。では、書道の上手い子に「生きる」と楷書で書いてもらったとする。見る人は、「うまい字だね」とか感想を述べる人が出てくるだろう。では、ダウン症の書家の金沢翔子さんに「生きる」と書いてもらったとする。見る人は、心を揺さぶられて「この字のように頑張って生きよう」とか「今は苦しいことばかりだけど、負けてたまるか」などと前向きな気持ちにさせられる。実際、彼女の書なら、100万円を超えると思うのだが、それでも欲しいと思う人が絶えないのである。

見る者の心を揺さぶる作品こそが芸術であると私は思う。ただ、哲学的な要素などが加わると、一般人には理解し難いが、芸術を追及する者を感動させるというタイプの芸術もあると思う。いずれにしても、芸術作品とは、そういった人々から高い値打ちを付けられるのである。

私も、小学校の頃、書いた絵の作品を担任が返してくれず、何度も返してくれと催促したら、「どうしても欲しい。先生にくれないか」と言われたことがあった。友達から、私にも絵を描いてくれとせがまれたこともあった。私の声楽の歌を聞いて、全然知らない客から、「感動しました。ありがとう」と声を掛けられたことがあった。絵はコンクールの受賞作品でもないし、歌もコンクールのような順位を競うものではなかったので、栄誉を称えるようなものではなく、あくまで見る人聴く人の心を純粋に揺さぶったということである。私の芸術の原点はそこにある。

とはいえ、今年の当塾のテーマとしては、芸術よりも修行に力点を置いて、子どもたちに「いかに良い修行をさせるか」でやっていきたいと思うのである。私自身も、修行としての書道に励んでみたいと思う。そういう気持ちにさせられた、本当に考えさせられる書写コン特別賞の結果発表であった。




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